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ホーム教育を考えよう:私学の先生方の教育コラム

私学の先生方の教育コラム27
旅の空の下で
東京女学館 副校長 正井進先生
 

年1回発行している学内誌「菊 1999」のために書かれた文章をご寄稿いただきました。

東京女学館 副校長 正井進先生
2001年11月22日寄稿
東京女学館HP http://www.h.tjk.ac.jp


 西暦二千年を数日後に控えた頃、私はタイにいた。国際理解教育の推進を考え、その一つとしてタイへの研修旅行または修学旅行を検討している他の学校の先生方一三名と一緒であった。最初に訪問したのはバンコクから北に約七〇〇キロ、飛行機で約一時間の所にある北部の古都チェンマイであった。そこでは、予想もしなかった寒さのために、すっかり体調を崩してしまった。日中になっていくぶん暖かくなったとはいえ、それは日向だけのこと。日陰では、成田空港に預けてきたコートが欲しいくらいの寒さであった。あとでわかったことだが、タイの南部をのぞいては記録的な「クリスマス寒波」だったようで、場所によっては死者がでたとか、緊急に四〇万枚の毛布が配られたとか、そのための費用として三千五百万バーツ(約一億五百万円)の臨時支出を首相が求めたとかいうようなニュースが新聞紙上に報道されていた。首都バンコクでも、ジャンパー類が飛ぶように売れたという話である。
 このチェンマイから北の山岳地帯に向かって車で約一時間、チェンダオというところがある。そこにある象の訓練センターから、象に乗って四〇分くらい山の中に分け入ったところにあるリス族という山岳民族の村を訪ねた時のことである。
 タイの北部には、様々な種族の山岳民族が種族ごとに、それぞれの文化や伝統を守りながら暮らしている。もちろん、それぞれ話す言語も違う。全部で二〇種族余り、五〇万人以上いるともいわれているが、後述するプラサートさんからいただいた最新の資料によれば、山岳民族の総数はもっと多く、七五万人を越えているという。その中の最大の種族は、全体の半数近くを占めるカレン族であるが、我々の訪ねたリス族は、人口約三万人という、山岳民族の中では少数派の種族である。こうした山岳民族は自らが非常に貧しい生活環境の中にあるだけではなく(たとえば、教育や医療の面で)、その他にも様々な問題をかかえており(たとえば、森林などの自然環境破壊、アヘン栽培など)、政府の機関をはじめ様々なNGOがこうした問題の解決のために働いている。

 我々が訪ねたのは約六〇人くらいの人たちが住んでいるという、谷あいの非常に小さな村であった。チェンマイ大学にある山岳民族研究所を勤め終えたばかりで、リス族の言葉も話せるプラサートさんが我々に同行していた。猪や鶏などの動物が駆け回るその村では、小さな小さな広場を中心に、我々のような観光客を目当てにした土産品が売られている。子どもたちの姿も見える。小学生とおぼしき子供もいる。その子供たちの多くが民族衣装に着飾っているのは、観光客のために、ということであろうか。タイでは小学校六年間が義務教育なのだが、このあたりの子どもたちは、必ずしもその義務教育すら十分には受けていないという。途中でやめる子供も少なくないらしい。

 おそらく偶然のことであろう。プラサートさんの知人らしき人が広場にやってきて、よくはわからないもののどうやらリス語で、プラサートさんと懐かしそうによもやま話を始めた。そのうちに、この知人らしき人物は、我々の求めに応じて彼の家の中に案内してくれることになった。彼の家は他の家に比べて特に大きなわけでもなければ、特にきれいなふうにも見えなかった。およそ一〇軒くらいが集まっているその村では、家々はだいたい同じように作られているものと想像できた。彼の家は、もともと親子六人が住んでいたが、結婚で二人が家を出、今は四人が住んでいるという話であった。その家は、地面の上に竹を張り合わせて作った掘っ建て小屋風の実に質素なもので、寝室と茶の間(?)からできていた。この「茶の間」は約一〇畳余の広さであろうか、床は地面がむき出しである。玄関などというものもない。戸口から入った所、そこがこの部屋である。片隅には、子供が寝るため(お客があったときにはお客用)のベッドともなる二畳くらいで高さが約五〇センチ前後の台があり、そのそばには炊事用の道具が置かれてある。台所にもなれば、食堂にも、居間にも、客間にもなるわけであろう。炊事場所のそばには木が燃えており、寒さに震える我々にとってはありがたかった。トイレらしきものはない。近くのジャングルで用を足すのだそうである。もちろん風呂場もない。隣の寝室の入り口には布がぶらさげられているだけである。寝室の大きさは「茶の間」よりも小さめで、中には夫婦用のベッドと子供用のベッドがおいてあり、その間には簡単な仕切りがあるだけ。これがこの家のすべてである。
 屋根は切り妻風だが、天井はない。だから、同じ高さにそろえられた壁のてっぺんと屋根との間、つまり「妻」の部分は三角形の隙間となっていて、外の木々がよく見える。煙突の役目もしているようで、煙がそこから出ていくのが見える。このような作りで雨風はしのげるのかと思うと、このあたりは谷間のようになっているので、そんなにひどい天候にはならないのだという。壁はすきまだらけだが、確かに屋根はしっかりしている。面白かったのは、当然電気は届いていないのかと思ったら、それはそうなのだが、車のバッテリーを持ってきて発電をしているということであった。

*****

 タイから帰国して迎えた西暦二千年元日の朝日新聞の天声人語には、次の詩が引用されていた。

「車がない/ワープロがない/ビデオデッキがない/ファックスがない/パソコン   インターネット 見たこともない/けれど格別支障もない/そんなに情報集めてどう するの/そんなに急いで何をするの/頭はからっぽのまま」(茨木のり子「時代遅れ」) 
 「豊かさ」とは何なのであろうか。リス族の生活は、「豊かさ」とはおよそかけ離れた、最小限に必要なものだけの暮らしといえるであろう。いや、その必要なものすら十分には備わっていないとも考えられる。しかし翻って考えてみるならば、その必要なものとは、はたしていったい何なのだろうか。一般に「衣食住」がそれにあたることは間違いないが、はたしてそれだけなのだろうか。我々人間に必要なのは、「衣食住」に代表される物質的な豊かさだけではなく、それと同時に(「その後で」ではなく「それとともに」)いわゆる「心の豊かさ」も必要なのではないだろうか。言い換えれば、我々が根元的に求めていること、つまり我々に必要なのは、「ただ生きる」のではなく、「よく生きること」、あるいは「より人間らしく生きること」だ、といってよいのではないだろうか。
 ではその「よく生きる」とか、「人間らしく生きる」とかいうことはどういうことなのか。非常に大きな問題なのだが、ここではそれを正面から取り上げて論じようとしているのではない。お許しを願ってひとまず次に進ませていただこう。

*****

 バンコクに移った我々は、一二月二九日、バンコクのクロントイというところにあるドゥアン・プラティープ財団を訪ねた。財団の創立者で、現在その事務局長をしているプラティープ・ウンソンタム・秦さんに会って話をうかがい、あわせてスラムの実状を見学するためであった。私自身にとっては、ここを訪ねることが今回の旅の大きな目的の一つであった。現在夏に行っているマレーシア・タイの海外研修に、この財団との関係の何らかのプログラムを組むことができないだろうか、というのが一つの課題なのであった。

 プラティープさんは一九五二年に、そこクロントイ・スラムに生まれた。小学校にも行けない子供が多いスラムの中にあって、彼女の母親は、当時でいう義務教育の四年制の私立学校に彼女を入れてくれた。公立の学校では、出生証明書がないスラムの子どもたちは受け入れてもらいにくかったのだという。卒業後、他の子どもたちが中学校に進学する中で、彼女は花火工場などで働いたり、近くの港に着く外国船のサビ落としなどをして家計を助けなければならなかった。多少のお金も貯まってきた一四才の時になって、彼女は再び夜間中学校へ通い始めた。一九六八年、一六才になった時、彼女は自宅の一部を使ってスラムの子供たちのために「一日一バーツ学校」と呼ばれるようになる寺子屋(託児所)を開設した。彼女は、この学校に来るのに一人につき一バーツを持たせるよう、親に頼んだ。当時であれば、鉛筆一本を買ってやれるくらいの金額であったという。様々な困難に遭いながらもこの塾は続けられた。一九七八年、彼女が二六才の時、このような活動が認められて、マグサイサイ賞(公共福祉部門)――フィリピンの第三代大統領ラモン・マグサイサイを記念して創設されたもので、アジアのノーベル賞ともいわれる――を受賞した。その際の賞金二万米ドル(約五〇〇万円相当)をもとに創立したのがこのドゥアン・プラティープ財団なのであった。その翌年、「一日一バーツ学校」は正式に「パタナ共同体小学校」としてバンコク市に公立校として認可され、プラティープさんは初代校長に任命された。八〇年にはロックフェラー財団より国際青年賞を受賞し、スラム・チャイルドケアー財団も設立した。一九八七年には曹洞宗国際ボランティア会の一員としてバンコクを中心に活動していた日本人、秦辰也氏と結婚。以来、たびたび日本をも訪問し、講演なども行っている。現在、ドゥアン・プラティープ財団の主な活動としては、教育、保健・衛生、社会サービス、人材開発、緊急救援などがあり、日本からのボランティアも多数活動している。なお、彼女の詳しい経歴等については、ご主人が書いた『バンコクの熱い季節』(岩波書店)にも紹介されている。

 この日、財団事務所についた我々は、まず二つのグループに分けられ、早速スラムを案内してもらうことになった。私のグループを案内してくれたのは若い男性であったが、日本語が達者で、すべて日本語で説明してくれる。スラムの中で写真を撮ることをためらう我々に向かって、「どうぞ」といって、先に立ってどんどん路地の中に入っていく。路地に向いた家々の戸口にしても窓らしきものにしても、そのほとんどが開けっ放しであり、家の中が丸見えである。横になっている人も見かけられるが、暗いのでよくわからないことも多い。じろじろ見るのは、ついためらわれる。スラムの人たちにしても、その生活ぶりにしても見せ物ではない。自分たちの生活の場面にズカズカ入り込まれ、興味本位でカメラを向けられることは、きっと不愉快にちがいないのだが、カメラを向けられた人たちはあまり気にする様子もなければ、怒り出す人もいない。むしろこちらのほうが、萎縮してしまうようなありさまなのである。

 スラムの状態は以前より改善されたという話であった。狭いながらも、確かに歩くところはすべてコンクリートで覆われていて歩きやすくなっており、沼地に家が建っているという状態ではなくなっている。路地に露出してはいるものの、水道管が敷設されている。しかし粗末な家々が肩を寄せ合うように建てられている様子や、あちこちに散在しているごみ、所々に漂う悪臭などは、通りすがりの者にさえ、まだまだ改善されるべきものがあることを示している。路地をあちこち歩いているうちに、見覚えのある道に出てきた。ずいぶん歩いたようにも感じたが、狭い地域をぐるぐる回っていたのかもしれない。なにやら迷路を歩いていたような気持ちにもさせられた。
 路地から出た我々は、後続のグループが戻ってくるのを待つ間に、財団事務所の隣にある「パタナ共同体小学校」を案内してもらえることになった。そろそろ終業時間が迫っている頃であったが、我々は駆け足で校内を、教室をまわることができた。校舎は四階建ての立派な建物に建て替えられている。現在ここには千人をこえる子どもたちが学んでいるとのこと、しかし、スラムの子供の中にはまだ学校に来られない子供もいるという。日本のいわゆる不登校とはわけが違う。そのような子どもたちはこの時にどこで何をしているのであろう。校内の掲示板には、日常生活における衛生上の指導のために書かれた手書きのポスターが貼られている。スラムの衛生状態、そしてひいては健康管理の面での改善を目指していることは明らかであった。

 プラティープさんは、教育こそスラム問題を解決する鍵だと力説する。「無知」「貧乏」「病気」の三つがタイ社会では貧困の悪循環の要因だ、としたあとで彼女は言う。「家が貧しく、小さい時から働かなければならず、学校にも行けない。そうすると文字の読み書きもできず、社会が見えないばかりか自分さえも見えなくなってしまう。教育がなければまともな仕事にもありつけず、非熟練労働者としてなんの保証もない生活をしなければならなくなって、貧乏になってしまいます。そして、ついには自分の生活や置かれている状況に耐えきれなくなって、酒浸りになってアルコール中毒になったり、麻薬に手を出したり、売春婦になってしまったり、博打で大きな借金を抱えてしまったり、あるいは事故に巻き込まれたりして、病気やけがで死んでいきます。その悪循環を断ち切るために、子どもたちへの教育を通して何とかしなくてはならない、と私は常々思っています」と。

 いま私はここで何を語ろうとしているのであろうか。また何を語ることができるだろうか。思わず自問せずにはいられない。リス族の人たちも含め、スラムに住む人たちの生活ぶりについて、何らかのレッテルを貼るつもりなのか。そうではない。だいいち、我々は彼らの生活のほんの一部分を垣間見たにすぎないのだから、そんなことができるはずもない。パタヤ共同小学校の子どもたちの表情が明るく、元気だった、という印象を持った人は少なくなかった。しかし、それだけで子どもたちのことがどれだけ分かったといえるのだろうか。それでは、彼らの生活ぶりを思い、自分の生活の「豊かさ」を感謝しようというのであろうか。それも違う。

*****

 ここで思い出すのはある女性の精神科医のことである。彼女の名前は神谷美恵子という。一九一四年に生まれ、今から二〇年位前の一九七九年一〇月に六五才で亡くなられた方であるが、特にハンセン病患者の精神科医として活躍した方である。彼女は、一九才の時、津田英学塾(津田塾大学の前身)に在学中にハンセン病患者に出会ったことがきっかけとなって医師になることを志した。しかしその直後に結核を患ったり、周囲の反対にあったりしたため、アメリカに留学したものの、最初は西洋古典学を勉強していたのだった。その後、友人になぜあきらめるのかといわれ、あらためてそれに立ち向かうことを決意し、多くの反対を押し切って、医学の勉強を学部のレベルから始めたのだった。
 その後日本に帰国し医学の勉強を続けていたが、一九四三年になってハンセン病患者のための療養所の一つ、瀬戸内にある長島愛生園を訪問した。初めてハンセン病患者に出会った時から一〇年後のことであったという。一二日間の島での滞在中、患者さんたちとの出会いの中から彼女が作った詩がある。

らいの人に
光うしないたるまなこうつろに
肢うしないたるからだになわれて
診察台の上にどさりとのせられた人よ
私はあなたの前にこうべをたれる

あなたはだまっている
かすかにほほえんでさえいる
ああ しかし その沈黙は ほほえみは
長い戦いの後にかちとられたものだ

運命とすれすれに生きているあなたよ
のがれようとて放さぬその鉄の手に
朝も昼も夜もつかまえられて
十年、二十年、と生きてきたあなたよ

なぜ私たちでなくてあなたが?
あなたは代わって下さったのだ
代わって人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩み抜いて下さったのだ

ゆるして下さい らいの人よ
浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい
そこはかとなく 神だの霊魂だのと
きこえよいことばをあやつる私たちを
(後略)

 「なぜ私たちでなくてあなたが?/あなたは代わって下さったのだ」という言葉は非常に重く心の底に響く。彼女がこれを書いた当時は、ハンセン病の治療薬はまだ開発されておらず、患者たちは社会から強制隔離されていた。鼻のない人、下唇が下へ下がったままの人、まぶたがしまらない人、四肢のない人、その姿はむざんなものであったろう。彼女はこの言葉について「べつに理屈ではない。ただ、あまりにもむざんな姿に接するとき、心のどこかが切なさと申訳なさで一杯になる。おそらくこれは医師としての、また人間としての、原体験のようなものなのだろう(傍点筆者)」と述べている。これは患者に対する単なる同情ではない。「もしかすると自分もその患者のようになったのかもしれない。あるものは死に、自分はたまたま生きているのだ」という思いなのであろう。

*****

 ここまでくると思い出す別の話がある。実は、昨年度の高校三年生の卒業式後に行われた謝恩会において、教職員を代表して保護者と生徒に対し最後に謝辞を述べる中で、そのことについてふれたので、ここでは、その挨拶の一部を紹介することにさせていただきたい。

 「これは山形県にある小さな学校での話です。ここは労働の大切さを強調している学校です。ですから、生徒たちは野菜作りなどの農作業もすれば、牛やにわとりなどの世話もしなければならないのです。彼らは子牛を育て、そしてそれを売って収入を得ていました。ところが、今から十年近く前のことですが、牛肉の輸入自由化に伴って、それ以前のようには牛が売れなくなってしまったのです。そこで、彼らは自分たちで育てた子牛を自分たちで殺して、それを食べなければやっていけなくなりました。その時、ある少年は、どうしても自分で育てた牛を殺して食べることはできない、と言ったというのです。
 けれども、長くてつらい日々が過ぎて、とうとうその少年も自分が育てた牛を食べるようになりました。その時、その少年は言いました。
  「自分は生きているのではなくて、生かされているのだ」と。
 皆さんは、「生かされている」という思いを持ったことがあるでしょうか?
 ところで我々は、人に頼らずに、自分の力で自立して生きていくことが大切だとよく言われます。それはその通りです。それは、自分の意志で選び取っていく生き方です。だから、それを選び取らないこともできます。また逆に選んだとしても、なんらかの理由でそれができないこともあるでしょう。
 しかし、「生かされている」というのは、意志とか努力の問題ではありませんし、さらには能力の問題でもないのです。「事実としてそうだ」ということです。ですから、自分の誕生日を変えることができないのと同様に、自分の力でどうこうできることではありません。ただ、それに気づかないことが多いだけです。
 しかし、いったんその事実に気づき自分が生かされていると思うとき、人は深く感謝するようになります。自分が生かされていると思うとき、人は本当に謙虚になります。生かされていると思うとき、人は他者の存在に本当に気づくのです(その二つはどちらが先ということではなく、同時におこるともいえるでしょう)。
 一方、生かされているということに気づかず自分の力だけで生きていると思うとき、人はその力を誇ったり、さらには高慢になったり、逆にそれに失望し、ひいては人生にも失望したりすることにもなりかねないのではないでしょうか。
 皆さんは今日女学館を卒業し、それぞれの新たな道の前に立っています。これまでの六年間、そしてこれからの新たな進路は、皆さんの努力と力によって切り開かれたものといってもよいでしょう。しかし、人によっては、自分の努力不足を悔やんでいる人もいるかもしれません。
 いずれにしても、繰り返しになりますが、今はそうした努力とか能力、あるいは自分の意志といったものとは違ったレベルでのことを話しているのです。時には、こんなに惨めな自分がなんで「生かされている」といえるのか、と思うこともあるかもしれません。けれども、生かされているのだ、ということなのです。事実として。
 この事実に思いをいたし、深く感謝する人となることを願っています。
 今日の謝恩の会が、ただ単に教職員に感謝する会といったことにとどまらず、ここにいるすべての人たちが自分が生かされていることに思いをいたし、感謝する時となることを、そして新たなスタートを切ろうとしているこの日が感謝の日Thanksgiving Dayとなることを、そして、新たに歩み出す一歩が感謝の気持ちとともにふみだされることを願うものです。
 卒業生のみなさん、今日は本当におめでとうございます。どうぞお元気で。お幸せに。そしてみなさん、本日は、本当にありがとうございました。」

*****

 タイの北部の山岳民族も、クロントイ・スラムに住む人たちも、我々とは遠く離れた所に住む、それゆえ、我々とは何の関係もない人たち、といえるのかもしれない。あのような貧困も自分たちで解決すべきことがらなのであって、そのためには我々他人が同情心から手を貸すことは控えたほうがいい、と考える人もいるかもしれない。けれども、このことを知る人は少ないのではないだろうか。数年前日本で米不足が叫ばれ、タイから米が緊急輸入されたことがあった。その時、クロントイ・スラムの住人は、「米の値段が高くなってしまったからおかずを減らさなければ」と言っていたのだそうである。その時の我々の関心はどこにあったか。「タイ米はまずい」といった、味のことにのみ向けられていたのでなかったのか。さらに、五年前に起こった阪神大震災の直後一〇日足らずして、プラティープ財団が中心となって、クロントイをはじめとするバンコクのスラムで、被災者のための募金活動が始まり、月末までには百十二万バーツ(約四五〇万円!タイの貨幣価値からすればこの一〇倍くらいの金額に匹敵しよう)が集められ、被災地に届けられたということもあまり知られていない。
 やはり、我々は「生かされている」のではないだろうか。誰が、どこで、どのような形で我々を(あるいは「お互いに」)支えてくれているのか、それを完全に把握することはできないとしても、どこかで誰かが「我々に代わって」重荷を背負ってくれているのではないだろうか。代わってくれている当人がそのことを意識しているとは限らない。むしろ意識していないことのほうが多いのかもしれない。いずれにしろ、この事実、いやこの「真実」に目を開くとき、遠くに住んでいるとか、別の国のことだからとして、「関係なし」として、切り捨ててしまうことはできなくなる。
 私の知り合いには、毎年、タイの山岳民族カレン族のところにワークキャンプででかける大学生・若者たちがいる。また、ボランティアとして、プラティープ財団が行っているプロジェクトの一つを支援するために、泰緬鉄道で有名なカンチャナブリで働いている女性もいる(今回のクロントイ訪問の際に、偶然にも財団事務所前で彼女にも会うことができた)。だからといって、誰もがワークキャンプにでかけるべきだと言うつもりではないし、カンチャナブリとかクロントイでボランティアとして活動すべきだと考えているわけでもない。それぞれが自分にあった形でこれに向き合えばよいのだろうと思う。そのことを願って擱筆する。

*****

最後にひとこと、次の点を書き添えさせていただきたい。

 「生かされている」ということを知ることが、「よく生きる」「人間らしく生きる」 ということにつながってくるのではないか。

(二〇〇〇年一月一五日)

2001年11月22日寄稿



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