2002年03月15日
共立女子中中城先生からNTS村上へ

 「時間」・「空間」とその中の「人間」の関係は実に面白いものです。個人は、三つの存在に共通する「間」の範囲を選択し、その中でどう過ごすか、またこの三つの「間」が作り出す総合的な関係をどう解釈するかによって、独自の価値観を生み出します。換言するなら、「時・空・人」と個人との「間」合い・向い合い方によって「今」としての現実が把握され続けていくことになるのです。「個」の価値観は、その時働く意識(分析)と無意識(感覚)の強弱深浅に大きく関わっていると思われます。

 20世紀後半、高度経済成長期の日本において、多くの「個」の価値観は、物質的進化とその速度を指向したため、「間」を縮める、埋めることが一義的と解釈する偏狭な社会的意識が充満するようになったと私は捉えています。本来なら「時・空・人」に絡む重要な存在としての(「間」を生かした)日本的芸術・文化の精神は、日本人が欧米型合理主義で消化不良を起こしている内に、かなり削り落とされてしまった、とも感じているのです。

 「間」は縮める、埋めるものだという画一的な判断は、それがまるで常に正当性を帯びているかのように行なわれてきたようです。ただ私は、もともと経済成長と結びついたこうした判断は、これからも必要なことなのだろうか、と素朴に疑問を持つのです。「時間」=「急ぐ」、「空間」=「満たす」、「人間」=「密接にする」、というような意識は皆が共通に持たねばならない目標ではないと思います。同じ目標を達成しなければとか、達成できなかったとかの意識によって生じるストレスを抱える人間は多いことでしょう。

 日本の教育界において、「個性」伸張をお題目とすることは随分前から行なわれていますが、愚かにも「個人主義」は「自己中心主義」と同一視され、「個人差」は許容されない状態が今もって続いているように思えます。やはり「個人差」より集団行動を優先した方が、管理的に整然と纏まって見え、そうした状態を導ける者が「良い教師」と映るのでしょう。

 「個人差」は、「集団」を乱すことが多いのは確かです。乱れは揺らぎを生じますから、それを是正もしくは改変するにはとてもエネルギーが必要です。「今」(現状)のままが(楽で)良い、と考える人々が多いのもわからないではないのです。でも「今」とは常に新しいものであり、意外性を孕んでいるものです。その意外性に期待する方が現状に満足するより、わくわくすることなのだと、皆、本当は気付いている筈です。

 連続する「今」の中に「間」は変化しながら存在していきます。貴方がおっしゃる「自己との間に愛ある視点を持つ」ことが出来れば、(私は「愛」という言葉を使うのに照れがありますので、「意志」でよいと思いますが、)「間」の中に可能性が広がっていくと思うのです。

 「間」は「隔たり」のことではありません。融合され得る関係(「個」と「他者」でも「ミルク」と「コーヒー」でも・・・)を意味しているのです。可塑性があるという意味で「間」は不安定でよい、と肯定して享受すれば、自分らしい「かたち」が観えてくるでしょう。

 ただ齷齪追うのではなく、観ながら待つ、という許容量が我々には必要だと感じています。

 遅れすぎの返信にて失礼します。

中城 拝





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