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渡辺先生
夜の新幹線からビール片手にこんばんは
ここ、終電の新大阪行き新幹線社内は、
ネクタイのサラリーマンが9.5割。
私のようなサラリーウーマンの姿は余り見受けられません。
シュウマイに幕の内、チーズに裂きイカと
静かに社内のこと、人生のことなど語り合う声をBGMに
私も新大阪に。
私の友はマツタケご飯弁当とノートパソコンであります。
メールを頂きありがとうございます。
こちらこそ、本当に本当にありがとうございました。
渡辺先生と本間さんとの30分1本勝負、
とても刺激的でした。
司会が駄言蛇足を吐いてはいなかったかと心配です。
最後にもちょこっと言いましたが、
「対話」はやはりKeyなのでしょうね。
対話・産婆術と言葉だけはよく聞きますし、
識ったような気になっていましたが、
先生の発表なさった共立での授業のあり方も、
まさに他者との言葉による対話を巧んでいる数学の授業、
そして自分探し=つまりは自分との対話を引き起こす美術の授業と
発表において目の前に展開された対話の数々を見聞きするにつれ、
対話にもいろいろあるのだなということを思いました。
先日女子学院の文化祭に取材に行ったのですが、
そこで見た、文化祭実行委員主催の講演会
「女子学院はここにあり」と題された、
学校をもういちど捉え返してみようというパネルディスカッションも、
「対話」ということについて考えさせるものでした。
司会は文化祭実行委員長。
壇上のパネラー5人(卒業生・在校生・校長先生)
のみならず聴衆として参加していた在校生、
卒業生である教員、聖書科の主任など、
次々に対話の輪に(実際に発言させるという意味で)引きずり込み、
彼女自身の興味関心である「女子学院の教育とは?」
「そこでの友人関係は変質したのか?」という問い
(隠れた問いとして「自分はこれから何ができるのか」ということも含め)を、
講堂にいる人たちすべてに突きつけ、
内的対話を喚起し、それをさらに開かれた対話の場に呼び込み、
というサイクルをつくる見事な司会ぶりでした。
(それ以来、司会業にはまったく自信を失っているのですが・・・・とほほ・・・)
このときに思ったのは、
あ、この内的対話と外的(?)対話の
サイクルが肝心なんだ、ということでした。
講堂には、声となって発せられてはいないけれど、
ものすごく濃密なエネルギーが渦巻いていたというか、
人の頭から発せられるものを見ることができるのならば、
この講堂は息ができないくらいの言葉で埋め尽くされているように
見えるのだろうなと思ったのです。
女子学院の場合は、礼拝やクラスノートなどで、
自分の思うことを発表し、それを読み、聞く機会が多くあるそうで、
故に人の言葉を受け入れ、自分の考えを表現することに
衒いがないという強さがあるようなのですが、
そういうプロテスタント校的な強さに加えて、
日本的な、慮ったり言葉に表されないものを大切にするという
精神のあり方(習慣??)もここでは上手く作用しているんだろうなと
思いました。
それより何日か前に、麻布の授業見学に行ったのですが、
そこで見た数学の授業のありようもまた
対話の形態はいろいろなのだということを思わせました。
授業の様子はこうでした。
先生が宿題を解いてきたかと生徒に問う、
すると生徒は「やってきていませんが今考えています」と言う。
そうかと言って先生はおもむろに黒板に向かって解法を
書き付けてゆく(幾何の授業で、作図法(?)についてでした)。
一見、教室に響く言葉は先生のものだけ、
壇上からただひたすら語りかけている。
最初は、あれ?れ?れ?れ?
こんなことで生徒たちはこの解のプロセスを
自分のものとしてゆけるのだろうか?
もっと丁々発止、侃侃諤諤の授業のあり方を予想していたのに
これはなんだ???何の対話も無いではないかと。
しかし、一緒に見学していた先生が、
「この先生は、すごい。一見生徒の様子など無視して
進んでいるように見えるけれど、
先生の言葉に反応して、先生が解法を見せる
その同じスピードでノートになんだか書き付けている子がいるし、
友達と相談している子もいる。
生徒がちゃんと反応しているのを分かってる。
きっとこの子たちは頭がいいから、こうやって進んでもいいんでしょうね。
宿題を全部やり終わったあとで、
じゃあこの問題はどうだ?と提示した問題は、
図から逆算してなんらかの数値を導き出すのとは逆の、
所与の条件の下でどうしたらこの図を描けるかという、
幾何の生まれたもともとのプロセスを生徒に辿らせている。
先生が描き終わるか否かのとこでもう生徒たちはノートに何か書いてますよ。」
と仰ったのを聞いてから、
もういちど教室の空気に神経を行き渡らせてみると、
たしかに、後ろから見ていても、
生徒たちの頭がぶんぶん回転しているのを感じることができます。
この子たちは、問題と対峙してものっすごい刺激を受けている
(と、本人たちは思っていないのでしょうが)。
ここでも―ここでは極限まで抽象的な―内的対話が起こっていたのでしょうね。
しかし、その内的な対話も、あの教室空間で、
クラスメイトが横にいて、あの先生がここにいる、という
力学が作用しているからこそ何かが違ってくるのかもしれません。
(机から目も上げずにノンバーバルコミュニケーションが行われている、
というのはオカルトすぎるでしょうか??)
先生もそれを(一見ものすごくアバウトに見えるのに!)
ちゃんと分かっていて進めているのですね。
(内的対話と外的対話ということについては
ほんとうは厳密に捉えなくてはいけないのかもしれませんね・・・
すみません、アバウトで・・・「思考する」ということと「対話」の
区別が明確でなくなってきました。)
>「思考」と「対話」についても何か考えるヒントがあればご教示くださいませ。
新横浜で書き始めたのですが、あっという間に
名古屋についてしまいました。
いいかげんビールも回ってきたようです。
最後にもうひとつ、今回両先生方のお話をお聞きして思ったのは、
授業にしても行事にしても共通するのは、
きっと良い授業/行事というのはなにか子供の心に事件を起こす
のだろうなということです。
事件、と言ってしまうと穏やかではないでしょうか?
川合先生流に言えば「出会い」ということになるのでしょうか?
だいぶ長くなってしまったのでこのへんで失礼します。
今度は私も対話に参加させてくださいませ!
江森
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