2001年08月11日
共立女子中 渡辺先生からNTS 本間へ
共立の渡辺です。

暑い日が続きますが、これまた夏ですからね。17日楽しみにしています。

論文中に中村雄二郎の説として 「思考されたモノ」は「主語的論理」であり、「思考するコト」は「述語的論理」である。丸山眞男東大派は「主語的論理」であり、西田幾多郎京大派は「述語的論理」なのだそうである。

とありました。私は読んでいませんが、多分1998年の『述語的世界と制度』に出てくるのだろうと思います。

丸山といえば、私は生徒向けに丸山の紹介を書いた事もあるのですが、長谷川宏が指摘するのと同様に『著作集』と『座談』を読んでも、自分にとって一種の坐りの悪さを感じる事がよくあるのです。

長谷川宏の『丸山眞男をどう読むか』(講談社現代新書)では、著者は丸山のいう「普遍的な感覚」の捉えかたを、丸山著作集の中の本人の発言(内村鑑三が「人類ってのは隣の八っつあん、熊さんだ」といっている、その意識が本当の普遍です。)といかに乖離しているかまでは、指摘していませんが私にはそう思えてならないのです。

中村雄二郎は、東大派・京大派のステレオタイプとして、西田幾多郎をもってきたのだとは思いますが、「思考するコト」なら廣松渉なのでしょうね。

彼が目指したのは、「事物(モノ)」に対する「事態(コト)」の存在を考え、旧来の実体主義的な物的世界像から関係を基礎に置く事的世界観への転換を図る事であったのですから。また、物を関係から切り離して実体化するときに、物象化が生じてくるわけですよね。

本間さんのご指摘のとおり、制度論については彼は何も言ってないのですが、「モノ的世界像を意識において、理論的に克服しただけでは事の解決にはならない、と承知しております。」と述べています。制度を考えることなくして、社会・経済・政治の各種の物象化現象を克服できない事はよくわかっていたと思います。しかし、多分手をつける時間がなく終わったのでしょうが、是非聞いてみたかったとも思っています。本間さんがやりませんか。

今たまたま、三年前に読んだ安江良介の『同時代を見る眼』を読みかえしたら、「福沢諭吉の嘆き」のページに行き当たりました。そこには、学制がしかれた10年後の明治15年に、福沢が書いた文章が出ていました。

「本来学校教育たるものは、教場有形の教えのほかに、一種無形の気風を存して、生徒の心事に影響をおよぼすこと甚だ大なるものあり。・・・・・然るにいま、全国三万の学校には、この無形の薫陶を欠き、生徒の学ぶ所はただ習字、数学、読書のみにして、守るところの主義とてはほとんど皆無というも可なり。・・・・・教書美にして、教者に乏し。」

福沢の慧眼には驚くばかりですが、いまはその読書すらあやしい時代になりました。「教書美にして」検定され、「教者に乏し」は耳が痛いことです。そこで、「学習プログラム」になるのですね。

私は、日本の教育制度には思考訓練の場があまりなかったのではないかと思います。ドイツのギムナジウムの英語の試験は、4時間かけて英米の同じ日の2紙の第1面の論調の差異を英語で記述させるそうです。フランスのリセでは、最終学年に必修科目として「哲学の学級」があるそうです。もっともリセにはアランがいたくらいですからできるのでしょうが、文系は週8時間、理系では週4時間かけて履修し、良心、理性、真理、自由、権利、歴史、自然、芸術、技術の9テーマか、指定された思想家の著作を1つ選んで自分の解釈を加える小論文を選択するのだそうです。

丸山にしても福沢にしても、どのようにしたら良いかの指摘はないのですが、情報や知識だけでなく、思考や論理や想像力(または創造力)を訓練する場がないと、自立した人間には育たないと思います。何か良い方法があるといいですね。

以上、電話でお話しできなかったことを補足しました。普段忙殺されていますので、本間さんのようには書くことができませんが、お盆ですので少し時間が出来ました。おかしな部分を、指摘していただければ有難いと思います。12日の午後から数日は留守にします。

お目にかかれるのを楽しみにしています。




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