NTS教育研究所NTS教育研究所
ホーム学校リサーチ:学校刊行物女子校洗足学園大学附属高等学校 「修学旅行レポート」

01/12/18 洗足学園大学附属高等学校 「修学旅行レポート」

修学旅行レポート洗足学園大学附属高等学校

『修学旅行レポート』


『歴史の街、長崎を思う』

 長崎という名で思い起こすことは、それが何となく南蛮情緒のイメージをこの都市に感じる。それは今何気なく使う日常会話の中に沢山の外来語があるが、そのほとんどがポルトガル語やオランダ語を語源にするものが多いからであろうか。日本古来のものかと思うほど私たちの生活に溶け込んでいる言葉がある。食べる物から家具、道具類、そして服飾用語に至るまで様々である。なかでもパン、天ぷら、そしてカステラ、これは私の頭にすぐに浮かぶ好物だ。他にもガラス、たばこ、チャンポン麺などなど・・・いっぱいある。これらはみんな南蛮文化の渡来物だ。キリスト教の伝来だってある。私は今度の修学旅行が『長崎』と聞いた時から「歴史の香る街」に思いを巡らせている。それは昔も、そして今も日本は極東の小さな島国だが、中世ヨーロッパで始まった大航海時代の開始と共に、嫌が上にも世界の影響という波は避けられなかった日本が、権力の独占と維持の為の鎖国政策にも拘わらず、それまでの中国貿易とは違う「南蛮文化」の影響下に包み込まれる時代に至り、日本もまた中世から近世へと社会変革を迎えるきっかけになった。その窓口が長崎の「出島」だった。

 出島が日本の近代化に重要な役割を果たし、その歴史的背景を考えると、世界的な遺産といえなくもない、と思う。実際、出島はその歴史的重要性から大正11年に国指定史跡「出島和蘭商館跡」として指定を受けた。しかし、「往時はどのような建物があったのだろう」「出島の範囲がわからない」等、市民や訪れる観光客からは復元を望む声が早くから聞かれたそうだ。私は「歴史」が好きだから出島にまつわる資料を探してみた。そもそも長崎が貿易港として幕末を迎えるまで栄えたのもポルトガル人やオランダ人の「漂着」がきっかけであり、ポルトガル人の信仰するキリスト教がローマ・カトリックでザビエルの率いるジェスイット派だったことから精力的な布教活動による日本側の脅威を呼び起こす羽目になり布教禁止と聖教者の追放処分となってしまったが、その後から来たオランダ人は布教活動こそしなかったが、宗派はプロテスタント系で、内的に信仰を深めることを強調し、信仰の証を唯一聖書にのみ求めるもので、人間と神との間を媒介する機関組織やその権威を必要としないという立場をとるので目立たなかったのかもしれない。

 ともかくも長崎の貿易港としての歴史を紐解けば、1543年、種子島を通じて鉄砲が伝来し、1549年にキリスト教が伝えられると同時に、ポルトガル人が領主大村純忠に波静かな天然の良港「長崎」を開港するよう求めたことから始まる。純忠は1570年に長崎を開港し、翌年の1571年にポルトガル船が初めて入港、ここにポルトガル貿易港「長崎」が誕生した。

 その後、全国を統一しつつあった信長の庇護の下に長崎は1580(天正8)年から7年間は、カトリック会派イエズス会の知行地となり、キリシタンの町、南蛮貿易の港として繁栄を誇った。しかし信長の後を継いで全国を統一した豊臣秀吉、そして又、家康はキリストを嫌い、1587(天正15)年宣教師追放令を出し、長崎を没収、直轄領とした。その時、秀吉は1597(慶長2)年に京都や大阪地方で捕らえられた宣教師やキリシタンを長崎へ送り、西坂の丘で処刑した。これが有名な26聖人の殉教である。

 秀吉の没後、1600(慶長5)年、関ケ原の戦の約半年前、一隻の外国船が豊後国(現大分県)の海岸に漂着した。この船がオランダのリーフデ号で、この船の漂着によってその後の長い日本とオランダの交流が始まった。1609(慶長14)年には二隻の貿易船を派遣、家康から貿易の許可を得て、平戸に商館を開設する。

 その一方では、徳川幕府は、1635(寛永12)年に日本人の海外渡航を禁止するとともに、翌年には長崎の有力町人25人に資金を出させ、出島を築造し、ポルトガル人を収容した。そして、1637(寛永14)年に起こった島原の乱によって、幕府はポルトガルに対する警戒をますます強めていった。そして、日本人とポルトガル人の接触を制限し、キリスト教の布教を禁止するために徳川幕府が長崎の町人たちに築かせた人工の島である出島は、1639年、第五次鎖国令によりポルトガル人が出島から追放されると、日本は鎖国の時代に入り、築造されたばかりの出島は無人の地となった。以後、ポルトガル船の来航が禁止され、平戸にあったオランダ商館は幕府の命により、出島に移される。以降、約220年の間、日本で唯一西欧へと開かれた窓口として日本の近代化に大きな役割を果たしてきたというのが南蛮貿易港「長崎」の歴史である。しかし、明治以降、発展する市街地の規模拡大とともに周囲は埋め立てられ、美しい扇形の姿を失っていってしまった。

 長崎は平成8年度から本格的な復元整備に取り組んで、その一部として、「日蘭交流400周年記念」の年である今年4月に出島に一番目の施設が完成したという。そして今後、2010年までに25棟の復元建物を、本物の場所に復元するそうだ。大変興味深い。江戸時代、諸外国と一切の接触を断っていた日本にあって、西欧に向かって唯一開かれた小さな小さな窓であった『出島』。学術・文化・経済などのすべてが、この小さな出島から入っていった。大きな大きな『出島』。その『出島』が今、甦ろうとしている。

 ぜひ、今度の修学旅行で実際に出島の上を歩いてみたい。



このページのトップへ▲
ホーム学校リサーチ:学校刊行物女子校洗足学園大学附属高等学校 「修学旅行レポート」