| 想像力はエネルギーの源
過去から現在に話を持ってくれば、じゃあ未来の話はどうなんだと皆さん疑問に思われるでしょうからちょっとだけ寄り道をさせて下さい。よく引用される芭蕉の言葉に、不易流行があります。不易とは時間時代が変わっても変化がないこと。流行とは時と共に変わることと解釈して対峙する意味で使われることが多いようです。が、芭蕉は不易と流行は根本的に相反するものではなく、一つの風雅のまことに帰するものだとして、不易流行と言ったわけです。これを私流に乱暴に言い換えると、不易の中に流行があり流行の中に不易が生まれるとなります。皆さん、今からお話する中村学園の過去と現在の物語から想像力を大いに働かせて、未来の私学の姿をどうぞ御自身の頭の中に描いていただければ幸いです。
今、想像力といいました。イマジネーションの方ですが、生涯かけて人間讃歌を演じつづけたチャップリンの台詞に、「人生に必要なものは勇気と想像力、そして少々のお金だ」というのがあります。私の好きな言葉の一つです。チャップリンの人間精神探究のリアリティーがこの短い言葉に良く表れていると思います。
中村学園物語
大変お待たせしました、中村学園物語を始めます。時計の針を、いっぺんに百四十年前に戻して下さい。万延元年、一八六〇年。本校創立者中村清蔵は、江戸深川に生まれました。当時、幕末は……いかに。歴史年表を紐ときますと、「いやござれ」と私も高校時代に暗記しました一八五三年嘉永六年、アメリカのペリーが浦賀に来航しました。同年ロシアのプチャーチンが長崎にきました。そして翌年、安政元年一八五四年には日米和親条約が結ばれたわけです。歴史的にはこの安政元年をもって江戸幕府の鎖国が終わり、開国したということです一八五八年安政五年に日米通商条約が結ばれると経済の激変が始まりますがそういう時代に清蔵が生まれたのです。またその年は、反動で桜田門外の変が起きて井伊大老が暗殺されました。慶応三年一八六七年に大政が奉還されて武士政権の時代が終わりました。翌一八六八年が、明治元年になります。その時清蔵は八歳です。先ほど申しましたとおり、想像の翼を広げていただきたいと思います。
女学校の創立
こういう人物と親交を深めた実業家である中村清蔵がなぜ学校を、それも女学校を創立したのか。これをたずねてみたいと思います。清蔵は、若い時に義理の父に内緒で慶応義塾に願書をだしたそうですが、商人に学問はいらない、と厳しく反対されて涙を飲んで諦めた。それでも清蔵は英語を習いたくって外国人と話しに、隠れて、港が開かれたばかりの横浜まで行ったという記録が残っております。自分自身の学問への道が無惨に断ち切られた、その無念さが教育への情熱、学校創立に向かったわけです。もともと生来の学問好きであったそうで、夕方から自宅を開放して読み書き算盤を自ら教えていたという証言も残っています。しかし時は明治末年、江東の地は江戸期以来商工業は栄えておりましたが、先程の言葉にありました商人に学問はいらない、まして女子に教育はいらないという風潮は根強かったと思われます。
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