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京北学園 白山高等学校「鶏肋
2002」
2002年3月 発行
「自分」を彫る
色がありすぎると、目がダメになる。
音がありすぎると、耳が聞こえなくなる。
味がありすぎると、舌の感覚を損なう。
『老子』第12章、木村尚三訳
現代は、様々な情報があふれている。外からの情報に振り回され、逆に、自分が何を求め、どれくらいの物が真に必要なのか見えなくなっている。地図のない、海上を漂流する小舟の如くである。そして、生きている実感が感じられないと語る若者すらいる。自分にそっくり当てはまる、生きるための簡便な答えなど誰も教えてくれない。もちろん、書物にも書かれていない。なのに、それに答えを与えるような題名の本が所狭しと書店の棚には並べられている。それだけ、多くの人が「生きる意味」を求め、迷っているからかもしれない。
本当は、益々、私たちは「内なる声」を聴くことが求められている。自分の「内なる声」を聴くことによってこそ、生きるための指針は生まれてくると思う。「魂と意志をもつ心理学」と言われるサイコシンセシスの創始者でイタリアの精神科医R・アサジオリは<Starting
from within>(答えは自分の中に)(自分の中から始める)と言っている。様々な自分の中にあるブロックに気づき、そこから自由になっていく。そして、より自分らしい花を開かせていくというのである。
又、今日、関係性の希薄化が嘆かれている。しかし、他者への「共感」以前のこととして、自分の声が聴けないで、どうして他人の声が聴けるだろうか。先ずは、自分をより所として海原を旅することを始めるしかない。自分が今、何を感じているのか知ること、自分への気づきが第一歩なのである。
そのための有効な方法の一つが、物を書くことだと思う。自分に聴きながら、一歩一歩と自分を彫っていくのである。
夏目漱石の『夢十夜』の第六夜は、運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいる夢である。見物客の一人が、一心不乱に彫る運慶を見ていて、次のように言う。
「なに、あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中で埋まっているのを、鑿と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違うはずはない。」
この話を読みながら、私は、木の中に埋まっているものこそ、その人の本来の姿を表しているように思われた。もちろん、運慶のようには、うまく彫れるはずもない。習練が必要である。しかし、私たちも、書くことを通じて、やがては本来の自分を現出させることができるかもしれないと思う。
考えるヒトになる
京北学園白山高等学校校長 川合 正
「思想や精神は決して自然に発達するものではないので、身体を鍛えるのと同様に精神を訓練する必要がある」と鋭い指摘を京北学園の創設者井上円了先生はされました。私は『鶏肋』という作品集を手にするたびに、この言葉を思い出します。この冊子に、京北学園の教育の原点を見る思いがするからです。日常的に本を読んだり、様々な絵を見て考えたり、友達と議論して気づいたりという地道な作業が継続し、この作品集はできました。毎週、机の上におかれる「はくさん」「ぶん」「Educare」「えんぴつ」「Infinite」などの学年新聞や国語科通信は、私にいつも生徒達の息遣いを伝えてくれます。そして「ものを考え、それを文字で表現する」ことの大切さを伝えてくれます。
「IT時代」と言われ、ビジュアルの世界やインターネット・メールがもてはやされ、読書や哲学、議論・手紙などが軽視される時代、我々は自信をもってこの1年間の教員と生徒達の努力の結実『鶏肋』を出したいと思います。「感動詞から離れ、考えるヒトに戻ろう」(2002・1・1「朝日新聞」)と井上ひさしさんも書いていらっしゃいました。「接続詞」をしっかり使いこなして秩序を知り、それぞれの人生観を築きあげることは重要で、「万が一、ここまでの作業にしくじると、14歳の犯罪を起こす張本人になってしまうおそれがある」とまで言われるのです。
近代科学の進歩は目覚しいものがありました。しかし、それは部分部分を便利にはしましたが、この世に存在するものは全てつながっているとか、相手のことも考えて行動するなど、全体のバランスを視野に入れた思考を弱くしている気がします。京北学園白山高校は、「21世紀の教育はケイホクから」を標榜し、生徒と教師が一体となって取り組んでいます。『鶏肋』でその端緒を垣間見ていただくとともに、忌憚ないご意見もいただきたいと思います。
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