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第9回 『白梅学園の創立の歴史』
- 白梅学園高等学校  企画部広報担当 安齋洋一郎 -

 1925(大正十四))年に、小松兼助が中心となって財団法人「社会教育協会」を設立し、当時としては新しい「社会教育しということばをかかげ、機関誌の発行、出版物の刊行、各種の講演会の開催などに務めてきた。その後社会教育の一貫としての家庭教育を方向づけるために、「東京家庭学園」の設立を計画し、1942(昭和十七)年三月三日に東京府知事の認可を得た。学園長穂積重遠の新しい母性の確立を目標とする教育理念の下にその第一歩をふみだしたのである。当初の学則第一条には、

「貞淑純良ナル婦徳ヲ涵養シ聡明ヲ培ヒ将来主婦トシテ家庭生活二必要
ナル精神的科学的教養ヲ授ケ実際的技能ヲ十分二修得セシメ真個ノ日
本婦人ヲ錬成スル」

とあった。
 「東京家庭学園」は、小石川指ケ谷町から小石川丸山町へ、また文京区丸山町へと学園を移しながら、戦中・戦後の苦難の時代を乗り越え教育活動を続けた。その後、1948(昭和二十三)年に東京家庭学園が発展して白梅保母学園となったのを機会に、「学校法人白梅学園」を設立した。その間、1950(昭和二十五)年には、白梅幼稚園の設置があった。
 1950(昭和二十五)年に、「白梅保母学園」は、「白梅学園保育科」に、さらに1956(昭和三十一)年短期大学の設立が決定され、翌1957(昭和三十二)年、白梅学園短期大学としての歩みを開始した。
 1961(昭和三十六)年には、新たに心理技術科が設置され、また「専攻科〈保育専攻〉」の開設があった。さらに、1966(昭和四十一)年には、教養科が設置され、短期大学は、今日の姿へと発展してきている。
高校の設置は、1953(昭和二十八)年、学校法人白梅学園が設立されたとき、すでにその計画があった。すなわち、幼児期より青年期にいたる一貫した人間形成を行なうための総合学園樹立の構想が、その設立趣意書にみられる。
 1962(昭和三十七)年、総合学園への発展を企図し、小平の地に学園を移転し、白梅学園高等学校を設置することが同年十一月二日の理事会で正式に議決された。
白梅学園高等学校の設置にいたるまでの経緯は、以上のとおりであるが、言うまでもなく学校法人白梅学園の高等学校として「白梅」の教育理念を継承している。

東京家庭学園の教育目標
 「東京家庭学園」は、1945(昭和二十一)年に新入生を迎えるに際して、新しい時代に即応した目標をたてた。この時の教育目標は、「生活の科学化・社会化・芸術化」ということであった。
「生活の科学化」とは、論理的な思考と、客観的な視点に立って現実の生活を再建することである。「生活の社会化」とは、他人に対する人間的な配慮にはじまり、環境に適応しつつ環境に働きかけて、これを改善することである。
「生活の芸術化」とは、生活の中に美を発見し、美を創造することである。
また、この三つの目標は、ギリシャ以来の「真・善・美」の価値にも対応するものと考えられ、この簡潔なことばに含められている高い理念のもとに、人間の価値を実現するという教育が発足したのであった。

「白梅」の名を冠して
 
「白梅保母学園」の名称は、東京家庭学園以来の校風を象徴する花の名をとったものである。すなわち、きびしい冬の間に来たるべき春を呼び起こすように、いろいろの花に先がけて咲くフロンティア精神と、その香りにあらわされる高い気品とをめざすものである。これはすでに校歌の中にも見られ、また付属幼稚園としての名にも使われていたので、異論なく決まった。設立当初の学則によれば、その目的は
 「白梅保母学園は児童福祉法施行令第十三条に定める保母養成の施設であって、児童福祉施設において、児童の保育に従事しようとする女子に対し、これに必要な理論及び実習を授けることを目的とする。」 とあった。

福祉と教育の合体及び総合学園構想
 昭和二十三年九月に杉並区馬橋四丁目四百九十九番地に四千坪の校地と九百坪の校舎を得る。そして、昭和二十八年四月東京家庭学園に厚生保母学園の事業内容(小林宗作とリトミック:右脳教育の取り組み)を合併して、白梅保母学園を創立し、厚生省指定保母養成機関として発足する。同年十二月学校法人白梅学園が設置され、小松謙助が理事長に就任した。設立の趣旨については、当初の「設立趣意書しに尽くされているので、その全文を次に掲げておく。

設立趣意書
 「学校法人白梅学園は、従来財団法人社会教育協会の事業の一部であった、学校の維持経営に関する事業を、同協会より分離独立せしめて、一層その経営の基礎を強固にするため、設立を企画したものであります。かねてから財団法人社会教育協会は、その事業の一環として幼児期より青年期に至る一貫した人間形成を行なうための総合学園の樹立をめざし、まず1950(昭和二十五)年三月、白梅幼稚園を設立いたしました。同幼稚園は幼児より科学的・社会的、かつ芸術的な生活の習慣を養い、調和のある人格の基礎を養うことを、その教育方針として努力を重ねてまいりました。この方針による行きとどいた保育は付近の家庭の信頼を集め、設立後、三ヶ年の間に定員三〇〇名におよぶ大規模な幼稚園となりました。更にこの度、児童の保護育成に従事するそのために必要な知識と技術を養い、かつ深い人間性と豊かな教養を与えることを目的とする各種学校白梅保母学園の設立を企画し、実現の運びとなりました。この白梅保母学園は短期大学程度の授業内容並に教授陣を持ち、一両年の内に短期大学保育科としての認可を受け得る規模をもっております。更に次の段階としては、短期大学に家庭科を増設、また将来は幼稚園と短期大学との中問に小学校・中学校・高等学校を設け、かねてよりの念願である総合学園の計画を完成したく考えております。以上の通り財団法人社会教育協会の事業のうち、その経営する学校は最近急速に充実発展しつつあり、また関係各方面のご好意によりその財政的基礎を確立するに至りましたので、この際、私立学校法の趣旨に則り、学校法人白梅学園を設立し、学校の維持経営に関する業務を分離して、これを独立の経営とすることになりました。かくして経済的基礎の一層の強化をはかり、且つ公共的性格の昂揚につとめ、本来の教育目的を一層充分に発揮し得るよう念願し、設立準備委員一同慎重に準備をすすめ、ここに別紙の通り、昭和二十八年二月十日、正式に設立の決議を行なった次第であります。」と、あった。
 ヒューマニズムの理念を掲げて本学の建学の精神は、人間を愛し、人間の価値を最高度に実現しようとするヒューマニズムの理念であるが、それを児童の上におよぼすとき、その生存の保障すなわち福祉と、発達の保障すなわち教育とを統合する本学園の基本方針を、今後いっそう明確な形で実現してゆくべきであるという教育方針を確認し、決意を新たにして、専任教職員一同、創設の苦労に立ち向かったのである。
昭和三十二年四月二十七日に白梅学園短期大学保育科設置が認可となった。牧野英一が学長に就任した。
 白梅学園短期大学の目的及び使命は、文部省へ提出した設置要項によれば、次の通りである。
 「白梅学園短期大学は、教育基本法ならびに学校教育法に基づき、一般教養と密接な関連において保育に関する専門教育をほどこし、幼稚園教諭並びに保母の養成を行なうことを目的とする。」
 すなわち当初は、「保育科単科の短期大学」としての目的および使命となっている。

新天地を小平市に求めて
 理事と事務局長勝山義吉は、新校地の選定に国分寺周辺へ度々おもむいたが、最初の候補地は西武国分寺線の恋が窪駅に近い雑木林の土地であった。しかし、そこは一万坪にやや足りなかったので、更に広い土地を求めようと探し歩いた。その結果、小平市小川一丁目八三〇番地の土地12、565坪(41、465u)選ばれた。
 昭和三十八年度は、小平の新校舎の建築に専念し、A棟、B棟の一部、C棟の一部および学生寮を年度内に完成することができた。

白梅学園高等学校の設立
 白梅学園高等学校は、1964(昭和三十九)年に、武蔵野のおもかげが色濃く残っている、玉川上水沿いの小平の地に創設された。本校が設立されるまでには、その母体となった学校法人白梅学園、さらには、その前身の東京家庭学園、白梅保母学園の創設に献身した人々の尽力があった。高校新設の計画に関しては、1962(昭和三十七)年十一月二十日の理事会において、高等学校の設置及びその学則について、正式に議決された。

(一)名称は「白梅学園高等学校」とし、全日制課程(普通科女子)とすること、(二)場所は東京都小平市小川一の八三〇とすること、(三)定員(設立当初)は一学年につき120名、計360名とすること、(四)開設日は1965(昭和三十九)年四月一日とすること、などが定められた。

 これは、かねてから白梅学園が理想としていた、幼児期から青年後期に至る人間形成のための一貫教育の一つの具体化であり、義務教育にあたる小・中学校を除いた部分、すなわち幼稚園と高等学校と短期大学をまず整えようとするものであった。
 この設置業務には、常務理事樋口愛子をはじめ事務局長勝山義吉が主として当たったが、田中未来も同年六月一日付で高等学校準備事務を臨時に委嘱され、主としてカリキュラムおよび教員組織、その他諸般の書類作成を担当した。
 校長は当初は短大学長野口明が兼ね、副校長として都立竹早高等学校はじめ都立高校の校長を歴任した荒井弘蔵を迎えた。同氏は一年後には校長となった。学則にかかげられた教育の目的は次の通りである。

 「本校は教育基本法、および学校教育法にもとづき、中学校を卒業した女子に対して高等普通教育をほどこし、とくに生活における科学性・社会性ならびに芸術性の発達をはかり、教養と品位をそなえた調和ある人格の形成を助長することを目的とする。」

 高等学校の設置認可書が交付されてから開校までの間、初代校長野口明と副校長荒井弘蔵とは同室に机を並べて、新しい教育の構想について語り合った。
「ともかく、生徒が毎日登校してくる時、楽しくてたまらないような雰囲気をつくりたい。」というのが、二人の一致した意見であった。
 常務理事の樋口愛子も、教育目的に掲げたことばの中の「品位」ということについて、「これは、いわゆる上品なお嬢さん学校という意味ではなく、青春時代をひたむきに生きる姿勢の中からにじみ出る、人間としての品位と考えたい。」と語った。
このようにして、白梅学園高等学校は、学園建学の精神であるヒューマニズムの教育を、生涯の中で最も感受性に富む青年期に及ぼそうと、高い理想に燃えて発足したのであった。

建学の理想と教育方針
 建学の理想、ならびに教育方針は、設置趣意書に述べられていることばを借りていえば、次の通りである。

 「本学園建学の理想は、人間を愛し、人間の価値を最高度に実現しようとする、ヒューマニズムの精神にあります。しかもこの理想は、科学性・社会性・芸術性というしっかりした基礎の上に立って、個人の価値を高めるとともに、各々の分野を通じてひろく社会の幸福にも寄与しうる建設的な社会人の育成をめざしております。教育方針は教育基本法ならびに学校教育法に則り、かつ、本学園の教育理想の具体化をめざすことは勿論でありますが、人の生涯で重要な青年期の心身発達の特性に留意し、一般教養をとくに科学性・社会性および芸術性の陶冶につとめるとともに、諸股の教育活動を通じて、各自の個性の伸長をはかります。また、現代社会に生きる女子青年として、種々の問題を自ら解決しつつ成長してゆくための個別的助言指導に力をそそぎ、品位をそなえた誠実な生活態度を育成いたします。なお、短期大学との関連を密にし、保育科および心理技術科に進学を希望する生徒には、それぞれに必要な基礎学力あるいは芸術的能力を十分身につけさせる一方、家庭や職場に入る生徒に対しては、実務の知識と技術の指導をも行います。」

歴代校長
初代校長:野口明(短期大学学長と校長を兼任)、二代校長:荒井弘蔵、三代校長:水谷政喜、四代校長:野村寛司、五代校長:谷口勝三、六代校長:和田征士、七代校長:秋田中子(現校長)

創設期の人々
穂積重遠 明治十六(1883)年−昭和二十六(1951)年
 明治・大正・昭和期の民法学者。東京都出身。東大卒業後、東大講師・同助教授となり、独・仏・英に留学。大正八年(1919)に東大教授となり、民法講座・法理学講座を担当。法の社会的作用に着目し、民法の分野で身分法研究に業績を示し、多くの影響を与えた。昭和十八(1943)年に定年退官、その翌年に貴族院議員となり、昭和二十(1945)年に東宮大夫に就任、昭和二十四(1949)年に最高裁判所判事となる。戦前から財団法人社会教育協会の理事長をつとめ、昭和十七(1942)年、東京家庭学園創立とともに学園長を兼ねる。著書に『民法読本』『親族法』『離縁状と縁切寺』『相続法』『有閑法学』などがある。

牧野英一 明治十一(1878)年−昭和四十五(1970)年
 大正・昭和期の法学者で、特に刑法・法哲学の権威。岐阜県出身。明治三十六(1903)年、東大卒業。大正二(1913)年、東大教授。昭和十三(1938)年に定年退官。二十一(1946)年に貴族員議員に当選、二十五(1950)年に文化勲章を受けた。昭和二十七(1952)年、東京家庭学園の学園長となり、三十二(1957)年には白梅学園短期大学の初代学長となる。三十七(1962)年退任後、名誉学長となる。刑法については応報刑主義・客観主義の理論に対抗し、目的刑主義・主観主義の理論を主唱した。法律の進化ば常に法律を社会化させることにあるという立場から、一貫して「法律の社会化」を強調した。刑法改正調査委員会・臨時法制調査会などの委員として活躍し、現行民法の成立にも貢献した。著書に『日本刑法』『法律に於ける矛盾と調和』『刑法研究』『法律に於ける正義と公平』『法律に於ける進化と進歩』『民法の基本問題』『法律に於ける具体的妥当性』『科学的自由探求と進化的解釈』『法理学』『刑法総論』『刑法各論』などがある。

小林宗作 明治二十六(1893)年−昭和三十八(1963)
教育者。群馬県出身。小学校卒業後、小学校の代用教員となる。東京音楽学校(現在の東京芸大)卒業後、成蹊小学校の音楽教師となる。岩崎小弥太の援助を受け、ヨーロッパに留学。パリで作曲家ダルクローズの指導を受け、独特のリズム体操「リトミック」を学ぶ。帰国後小原国芳とともに成城学園を創立。昭和十二(1937)年、目黒区自由ケ丘にトモヱ幼稚園とトモヱ学園(小学校)を創立、リトミックを小学校の教育に導入するとともに、子供の個性尊重に徹した教育を実践した。戦後、厚生保母学園の校長となったが、昭和二十七(1952)年に厚生保母学園の廃校とともに、東京家庭学園がそのあとを継いだ。

河崎なつ 明治二十(1887)年−昭和四十一(1966)年
教育者・評論家。奈良県出身。明治四十五(1912)年、東京女子高等師範学校を卒業。大正五(1916)年に東京女子高師講師、翌六年、東京女子大学教授に就任。国語と作文を担当を担当し、特に作文の心理の研究で知られる。大正十(1921)年に文化学院の主事となり、同学院の基礎を築くのに貢献したが、戦時中、文化いて教授となり、自由主義者の故をもって学園を追われた。戦後、昭和二十二(1947)年から二十七年まで参議院議員に当選、文教委員として活躍。昭和三十二(1957)年、白梅学園短期大学講師・続いて、教授となり。保育科長となる。母子福祉協会会長、「日本子供を守る会」の理事などを勤めな、文筆活動にも幅広く活躍した。特に日本婦人生活史についの著作が数種ある。

小松謙助 明治十九(1888)年−昭和三十七(1962)年
社会教育の指導者であり、白梅学園の創設者。福島県出身。仙台市の東北学院を中途退学の後上京して、独学で政治・経済を学習。明治四十二(1909)年、万朝報の記者となる。大正三(1914)年東京朝日新聞社に移り、社会課次長となる。大正九(1920)年毎日新聞社に移り、学芸課長となる。十二(1923)年サガレン(黒龍江から間宮海峡をへて樺太までの地域)学術探検隊の隊長として現地調査にあたる。大正十四(1925)年、財団法人社会教育協会を創設し、その常務理事、続いて理事長となる。昭和二十八(1953)年学校法人白梅学園設立とともにその理事長となる。三十五(1960)年、社会教育の振興に貢献した功によって藍綬褒章を受けた。

田中寛一 明治十五(1882)年−昭和三十七(1962)年
大正・昭和期の心理学者。岡山県出身。大正二(1913)年、京都大学卒業、続いて東大大学院に学んだ。東京高等師範学校教授を経て、東京文理科大学教授となり、昭和二十(1945)年定年退官。その後、日本大学教授・田中教育研究所長となる。昭和二十一(1946)年、東京家庭学園の学監となる。わが国における教育心理学の草分けで、教育的測定学について先駆的業績を残し、また「人間工学」という人間操作に関する特殊分野の学問を提唱した。アメリカに居住する世界諸民族の知能を比較する広範な調査を行なって、日本人の知能の優秀性を例証する興味ある業績を残した。また、今日も広く用いられている「田中ぴねー式」を完成した。昭和三十六(1961)年、文化功労者となる。著書に『教育測定学』『日本民族の将来』『東洋諸民族の知能に関する比較研究』『アメリカにおける諸民族の知能』『田中B式知能検査』などがある。

野口明 明治二十八(1895)年−昭和五十四(1979)年
教育行政の専門家。東京都出身。大正八(1919)年東大卒業。文部属・普通学務局課長・宗秩寮宗親課長帝室林野局管理部長を経て、昭和十八(1943)年、第二高等学校長、二十四(1949)年、お茶の水女子大学長となる。昭和三十七(1962)年に白梅学園短期大学長となる。また四十六(1971)年に社団法人日本弘道会会長となる。書・漢詩・和歌・俳句(俳号芋村)を嗜んだが、特に趣味としての画業は素人画界の筆頭と評きれた。その画集に『野口明画集』がある。

槙智雄 明治二十四(1891)年−昭和四十三(1968)年
政治学者。仙台市出身。大正三(1914)年に慶応義塾大学卒業ののち、大正九(1920)年イギリスのオックスフード大学を卒業。大正十(1921)年、慶大予科教授、十五(1926)年に同大学法学部教授となり、慶応義塾の常任理事をつとめる。昭和二十七(1952)年に防衛大学校長となる。昭和二十四(1949)年に社会教育協会の理事となり、三十二(1957)年白梅学園理事に就任、四十(1965)年に白梅学園短期大学長に就任、翌年白梅学園常務理事に就任し、在任中に急逝。著書に『西洋政治制度史』『防衛の努め』『米・英・仏士官学校歴訪の旅』がある。

樋口愛子 明治四十四(1911)年−昭和四十九(1974)年
小松謙助の長女。東京都出身。東京府立第二高女・津田英学塾を経て、昭和十三(1938)年に東北大学心理学科卒業。直ちに東京文理科大学副手となり、十七(1942)年に同大学教育相談部員となる。十九(1944)年、父謙助の創立した東京家庭学園の後身勤労女子青年錬成所の教授と、心理学部の生徒主事になる。二十一(1946)年、再発足した東京家庭学園の教授兼主事となり、生活の科学化・社会化・芸術化を学園の基本目標とする。二十六年に女子美術大学教授となり、心理学を講ずる。昭和二十八(1953)年に白梅保母学園が創立され、その主幹・教授となる。三十二(1957)年白梅学園短期大学創設とともに教授に、また学校法人白梅学園常務理事となる。三十六(1961)年に短大に心理技術科・保育専攻科が認可され、保育科とあわせて三科の科長となる。四十二(1967)年、学校法人白梅学園事務局長を兼ね、翌年白梅学園短期大学学長となる。四十八(1973)年に白梅学園理事長となり、全国保母養成協議会の副会長となる。四十九年現職のまま急逝。「日本人と短旋法」という心理学に関する研究業績などがある。

 第9回『『21世紀の女子教育を考える会』の発展のために』
第9回 『夏期教師研修について』

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