東京文化中学校・高等学校は、1927年(昭和2年)に森本厚吉(1877〜1955)によって設立された女子文化高等学院に始まります。翌1928年には、札幌農学校での恩師である新渡戸稲造を校長に迎えて、女子経済専門学校となり、高等女学校を併設しました。戦後になって、これが東京文化高等学校と東京文化中学校になりました。
森本厚吉は、札幌農学校を卒業後、新渡戸稲造と同じ道をたどり、アメリカ・ボルティモア市のジョンズ・ホプキンズ大学に留学しました。消費経済を学んでの帰国後、いわゆる大正デモクラシーの一端を担い、1920年(大正9年)に親友の有島武郎・吉野作造らと文化生活研究会を結成し、文化生活運動を始めました。
その活動は、啓蒙雑誌「文化生活」の発行、近代的住宅「文化アパートメント」の設置と維持などでした。やがて、男尊女卑の傾向が著しい社会の中で、アメリカのように生活を向上させるためには、女子の働きが重要であるとして、女子教育を始めたものです。
学校の教育方針は、森本厚吉が提唱した3H精神(Head=活(はたら)く頭、Hand=勤(いそ)しむ双手(もろて)、Heart=廣(ひろ)き心)と、新渡戸稲造が述べた「国際的感性」(違いを認め合い、受け入れる広い心)です。この2つの教育方針に通じることは、心を広くもつということです。
森本厚吉に贈られた新渡戸稲造の書」が本校に4点残されています。2点は英文で、2点は漢文です。(「森本厚吉に贈られた新渡戸稲造の書」の写真は、こちらです。)
「Haste not, Rest not. I. Nitobe」
これは、ゲーテの詩集「温順なクセーニエン」から引用したもので、活動を尊ぶ老ゲーテの最も好んだ言葉です。
「For his Friend Morimoto Haste not, Rest more. I. N. in behalf of
his Family.」
これは、上の言葉をもじったもので、森本厚吉の働き過ぎをたしなめたものです。
「心清者福也 稲造」
これは、「心の清き者は福(さいわい)なり」と読みます。出典は新約聖書の「マタイによる福音書」第5章第8節の言葉で、心の清いことを大切にすることを述べています。
「心外無別法 稲造」
これは「しんげむべっぽう」と読み、出典は「楞厳経(りょうごんきょう)」で、吾人の認識する諸法、即ち森羅万象は皆各自の心識から出たもので、心とは別にその物が存在するのではないということ(「大漢和辞典」諸橋轍次著、巻四
4343ページによる。)で、心の働きを述べています。
アメリカでの大学での影響を受けて、森本厚吉は女子教育を自由な環境で推し進めました。日本の国だけのことを抜き出して考えるのではなく、世界の中での日本という教育を戦時下でも続けました。
創立以来の校歌に「自由の行く手、いかに曇るも、乙女は笑(えま)いて、ただ拓(ひら)きゆく」という一節があります。自由という言葉は戦時下では使いにくい言葉でしたが、本校ではその当時も歌われました。
高等女学校での英語教育は、制度上は選択科目とされていましたが、都会の高等女学校では英語を課していました。1942年(昭和17年)に女子の外国語学習は「随意科目」とすることになりましたが、1,2年生の英語は必修で残しました。
生徒が工場などで働く「勤労動員」は1944年(昭和19年)4月から開始されていますが、本校では森本厚吉の「生徒をなるべく戦争に直接参加させたくない。」という理由で動員に消極的に対応していましたが、時局はそれを許さず、同年6月から生徒の動員が始まりました。
このような形で、森本厚吉が大切にした、違いを認めあう教育、心を大切にする教育が本校で行われ、今日に至っています。
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